平成があと5日で終わるという時に父が逝ってしまった。
昭和4年生まれ、90才と2カ月。
娘3人息子1人、孫が9人にひ孫が4人。
波乱万丈ながら充実した人生だったと思う。
70代まで仕事を続け、お酒とカラオケが大好きで、カメラや盆栽を愛し、日曜大工はお手の物。
60から始めたゴルフや小学校時代の同窓会では世話役を引き受け、
パソコンを独学で始めて名簿や案内状を作成し、こまめに大学ノートに日記を書き続け、
美味しい水を求めてわざわざ阿蘇まで車を走らせて汲みに行くなど、とにかく明るくて社交的でよく動く父だった。
人間ドックに行くと母に言い残して、「ハワイに行って来たぞ」と笑いながらこっそりわざわざ遠くの娘の家まで来てお土産のアロハやムームーを届けてくれたり、
昼間っからビールひっかけていたわりには50年間無事故無違反の表彰をされたりと、
要領がいいのか運がよかったのか、調子のいい人だった。
そんな父の黄金時代も80才まで。
阿蘇の神社に水汲みに行った時に脳梗塞を起こして倒れて以来、体の自由を奪われて、
それまでの自由奔放な生活から一変、窮屈で退屈な療養生活が始まった。
自分は若いというプライドがあったのか、とにかく年寄りの中で過ごすのが大嫌い。
持ち前の運動神経でやればできたリハビリも、みじめな自分の姿を人前にさらすのが許せず、気が立って看護士さんや回りに当たり散らし
即刻退院させられる羽目になったこと数知れず。
そのたびに、母や私たちは頭を抱えてどうしたものかと悩んだけれど、
ここ数年は元気もなくなり、たびたび転んで怪我したり、去年の暮れには誤嚥性肺炎で入院するなどだんだん弱ってきていた。
いつかこの日が来るとはわかっていたけど、食事が入らない水分がとれない、呼吸が浅くなってきたとか聞いても、なんだか現実とは思えず、すぐには飛んでいけなかった。
妹たちにまかせっぱなしで甘えていた。
あと1便早いフェリーに乗っていたら・・
夜中の高速道路があんなに夜霧で見通し悪くなかったら・・
私が到着するまで死亡宣告は待っていてくれたけど、やはり最期の刻に間に合わなかったのが心残りで仕方ない。
昏睡状態でも、私が来るのをずっと待っていたはず。
たった21年で遠くにお嫁に行って、なかなか帰れなくて、危篤状態でいざ帰る時でさえ、仕事の段取りに追われて遅くなって、なんて娘だったんだろうね。
ごめんね、お父さん。
「やっぱりおまえは‘あっぴのうっぴ‘たい」と、今頃天国で笑っているかな?
でも、東京から群馬から広島から孫やひ孫たちも全員集まって、とてもにぎやかで心のこもったお見送りができた。
家業のよしみで、自分のお気に入りの写真を用意してベッドの上に飾っていた父。
働き盛りの頃のえらく若い父の顔が、桜の花の舞うお棺に収まりたくさんの花々に囲まれて満足そうだった。
本当に今までありがとう。
お父さんのDNAは、子や孫やひ孫やその先の代までずっと続いていくんだね。
天国に行ったら、思う存分好きなだけゴルフして、懐かしい人たちと再会して、いつまでも私たちのことを見守っていてください。
昭和4年生まれ、90才と2カ月。
娘3人息子1人、孫が9人にひ孫が4人。
波乱万丈ながら充実した人生だったと思う。
70代まで仕事を続け、お酒とカラオケが大好きで、カメラや盆栽を愛し、日曜大工はお手の物。
60から始めたゴルフや小学校時代の同窓会では世話役を引き受け、
パソコンを独学で始めて名簿や案内状を作成し、こまめに大学ノートに日記を書き続け、
美味しい水を求めてわざわざ阿蘇まで車を走らせて汲みに行くなど、とにかく明るくて社交的でよく動く父だった。
人間ドックに行くと母に言い残して、「ハワイに行って来たぞ」と笑いながらこっそりわざわざ遠くの娘の家まで来てお土産のアロハやムームーを届けてくれたり、
昼間っからビールひっかけていたわりには50年間無事故無違反の表彰をされたりと、
要領がいいのか運がよかったのか、調子のいい人だった。
そんな父の黄金時代も80才まで。
阿蘇の神社に水汲みに行った時に脳梗塞を起こして倒れて以来、体の自由を奪われて、
それまでの自由奔放な生活から一変、窮屈で退屈な療養生活が始まった。
自分は若いというプライドがあったのか、とにかく年寄りの中で過ごすのが大嫌い。
持ち前の運動神経でやればできたリハビリも、みじめな自分の姿を人前にさらすのが許せず、気が立って看護士さんや回りに当たり散らし
即刻退院させられる羽目になったこと数知れず。
そのたびに、母や私たちは頭を抱えてどうしたものかと悩んだけれど、
ここ数年は元気もなくなり、たびたび転んで怪我したり、去年の暮れには誤嚥性肺炎で入院するなどだんだん弱ってきていた。
いつかこの日が来るとはわかっていたけど、食事が入らない水分がとれない、呼吸が浅くなってきたとか聞いても、なんだか現実とは思えず、すぐには飛んでいけなかった。
妹たちにまかせっぱなしで甘えていた。
あと1便早いフェリーに乗っていたら・・
夜中の高速道路があんなに夜霧で見通し悪くなかったら・・
私が到着するまで死亡宣告は待っていてくれたけど、やはり最期の刻に間に合わなかったのが心残りで仕方ない。
昏睡状態でも、私が来るのをずっと待っていたはず。
たった21年で遠くにお嫁に行って、なかなか帰れなくて、危篤状態でいざ帰る時でさえ、仕事の段取りに追われて遅くなって、なんて娘だったんだろうね。
ごめんね、お父さん。
「やっぱりおまえは‘あっぴのうっぴ‘たい」と、今頃天国で笑っているかな?
でも、東京から群馬から広島から孫やひ孫たちも全員集まって、とてもにぎやかで心のこもったお見送りができた。
家業のよしみで、自分のお気に入りの写真を用意してベッドの上に飾っていた父。
働き盛りの頃のえらく若い父の顔が、桜の花の舞うお棺に収まりたくさんの花々に囲まれて満足そうだった。
本当に今までありがとう。
お父さんのDNAは、子や孫やひ孫やその先の代までずっと続いていくんだね。
天国に行ったら、思う存分好きなだけゴルフして、懐かしい人たちと再会して、いつまでも私たちのことを見守っていてください。
コメント
謹んでお悔やみ申し上げます。
おとう様らしい最期で、天寿を全うされたように感じました。
愛する方々に見送られ、お幸せでしたね!
親なんて、いなくなっても、常に身近に感じられます。
私も父を亡くして、この夏で、13年目。
思い出さない日はありません。
親は有難いものですね~。
いつも離れて暮らしていたからか、住んでる場所が手の届かない所になったくらいの感覚で、ちっとも実感が湧きません。どの写真も笑顔がステキな自慢の父です。
久しぶりにみんなの家族が大集合して、明るくにぎやかに見送れてよかったです。
どれだけ愛されてたかすごく分かる式で良かったよね、ポピ様はじめ親戚一同久々に集まれたのもおじいちゃんのお陰だよ。もっとお見舞い行けばよかったとか、帰省の度に会いに行けばよかったとか、後悔ばかりが残るけど、もうおじいちゃん自身が辛い思いをしないで済んだのかなと思うと、少しほっとしたとこもあるよね。またすぐみんなで集まっておじいちゃんの思い出話したいな~
素敵なお父様だったことが伝わってきました。また、老いの寂しさ、悔しさがわかる歳になってきて、お父様の晩年のお気持ちもわかる気がして、私もなんだか涙腺が緩んでしまいました。
寂しいですね・・・私も父が大好きだったので・・・
でも、不思議な事に、アミさんもおっしゃってるように、時間が経つにつれいつも近くにいてくれる感が増してきます。
離れているとどうしても、何かしら悔いが残りますが、気にするなと笑ってくれてると思いますよ。
久しぶりにゆっくり滞在して、みんなと写真探しながらの思い出話、楽しかったです。
いつも参観日や卒業式に来てくれて、今年の正月に会った時も寝起きだったのに私を見て「おお、〇〇が・・」と亡くなった母の名を口にして、あとは声にならず口をパクパクして何か言いたそうでした。1番似てたから母が現れたと思ったのかな。
きっとずっと見守ってくれると思います。
本人はわけもわからず目覚めたら彼岸だったと思います。
生きているうちの悲しいこと苦しかったことすべて
たましいの病院に入って治療するのだと夫に聞かせてもらいました。
そういうものなんだそうです。
ますます父を近しく思える。そんな場所に行ったんだなぁ、とね
今は空からここを見下ろして見守ってくれているのでしょう。
その点、父はほとんど目いっぱい寿命を使い果たして逝ったので、「お疲れさまでした」という気持ちでいっぱいです。
なんだか身近な人がどんどん天国に行ってしまうから、自分の番が来ても恐くなさそうな気がしてきました。いやいや、もちろんまだまだこれからですけどね。
私も自分の事を最近考えるようになってきました。どんな最期がいいのかなー、なんてね。
間に合ったと思ってまだ温かい父の肩を抱いたら、一瞬動いたような気がしたのです。確かにその時すでに心臓は止まってたかもしれないけど、わかってくれたんだと信じてます^_^