古いアルバムが押入れから出てきた。
昭和34年頃だろうか、25歳の母と若い頃はハンサムだった父の新婚旅行の写真から始まり、
母の実家での結婚のお披露目の写真では、若きおじさんやおばさんたちも勢ぞろい、
小さかったいとこの兄貴たちもついてきて、着物や服装といい、髪型といい、昔の映画を見るような感覚だ。
ニコンのカメラで撮った小さめの白黒写真は精度がよくて、今でもはっきりくっきり映っている。
祖父母やおばさんたちもみんな若く、若夫婦の結婚を笑顔で祝福しているようだった。
母方のじいちゃんとばあちゃんは懐かしい笑顔で元気そう。
よく泊りに行った田舎の家の縁側や五右衛門風呂や、庭や畑の様子がよみがえってくる。
秋には菊の花がいっぱい咲いて、惜しげもなく花びらちぎってままごとのお料理に使ったものだ。
白い菊のごはんに黄色の菊をふりかけて、葉っぱをおもちゃの包丁できざんでおかずにするのが定番だった。
暑い夏には近くに小川が流れていて水遊びができたし、あぜ道をたどって山の方へ行くと、
古い洞穴やトンネルが見つかったりしてよく探検して遊んだものだ。
納屋には「ぽっちゃん便所」があって、丸く穴を掘っただけのトイレは足をつっこみそうでひやひやした。
よく、飼っていたニワトリを捕まえて絞めて料理してくれたけど、「コケーコッコ!」とあわてて芝生を逃げ回るニワトリの最後は見ていられなかったな。
そんな田舎にしょっちゅう泊りに行きたがる私を叱っていた父方のじいちゃんは波平さんそっくりの明治生まれで、写真では紋付袴姿がばっちりキマッている。
隣りで羽織の着物姿で映ってるばあちゃんは、キリッとし過ぎて近寄りがたいほど。
ま、当時はピースで笑って映るなんてなかったからなぁ・・
幼少時は祖父母、叔父夫婦といとこの兄貴たち、そして我が家の3家族が広い家の表と裏に分かれて同居していた。
こちらは町なかの電車通りに面した家で、一緒に家業を営み、裏には木工場もあった。
じいちゃんはしつけも厳しかったけどよく可愛がってくれて、一緒にお風呂に入ると
普通の石鹸でなく洗濯石鹸でごしごしやられて幼な心に嫌だったのを覚えている。
固くて匂いが嫌なんだよね。
みんなのアイドルだった私は、毎日日替わりで、みんなにお風呂に入れてもらったものだ。
そのうち妹が生まれ、顔の横広い私と卵型で目鼻立ちがはっきりした小顔の妹のツーショット。
妹のアルバムには写真が少ないと思っていたら、ここに結構残っていた。
じいちゃんのひざにいつも座って、七五三で着物を着せてもらったのにすぐ脱いで、
肝心の記念撮影の時は髪飾りだけそのまま、いつもの服で他のいとこ達と映っていたり(笑)
古きよき時代。思い出いっぱいの時代。
下の妹が生まれる頃にようやくカラー写真が登場した。
田舎の縁側で、赤ん坊の妹を抱いている母と、様子を見に来た私たちの写真もある。
昭和43年にようやく郊外に家を建てて一家で独立。
今度は田舎をたたんできた母方の祖父母と一緒に暮らし始めたから、下の妹はこちらのじいちゃんに可愛がってもらうことになる。
でもまさか、その数年後に母が病気で亡くなるなんて・・
一緒に暮らした4年間は、娘として最後の親孝行だったのかもしれない。
たった一人の大きな存在が消えてしまったことで、その後の家族や周囲の人生は一変した。
その後父は今の母と再婚。祖父母は再び田舎へ帰って180度違う家族の歴史が始まった。
祖父母としばらく続いた手紙のやり取り、今でも達筆な筆跡が残っている。
それも40年も前のことなのだから、人生は長いし、実にいろんな葛藤もあったけど、
今の母のおかげでずいぶん助けてもらったし、弟も生まれて家業を引き継ぎ、父も自宅療養していられる。
よくぞ3人も娘がいるところへ来てくれたものだと感謝している。
生きている人のことを大事に思って感謝し、亡くなった人のことを忘れないのが供養だと思う。
私もいまや孫までできて、本当に人生って登場人物が入れ代わり立ち代わり続いていくものだな。
きょうは敬老の日。じーさまの所へ顔を出して、実家に電話でもしよう。
昭和34年頃だろうか、25歳の母と若い頃はハンサムだった父の新婚旅行の写真から始まり、
母の実家での結婚のお披露目の写真では、若きおじさんやおばさんたちも勢ぞろい、
小さかったいとこの兄貴たちもついてきて、着物や服装といい、髪型といい、昔の映画を見るような感覚だ。
ニコンのカメラで撮った小さめの白黒写真は精度がよくて、今でもはっきりくっきり映っている。
祖父母やおばさんたちもみんな若く、若夫婦の結婚を笑顔で祝福しているようだった。
母方のじいちゃんとばあちゃんは懐かしい笑顔で元気そう。
よく泊りに行った田舎の家の縁側や五右衛門風呂や、庭や畑の様子がよみがえってくる。
秋には菊の花がいっぱい咲いて、惜しげもなく花びらちぎってままごとのお料理に使ったものだ。
白い菊のごはんに黄色の菊をふりかけて、葉っぱをおもちゃの包丁できざんでおかずにするのが定番だった。
暑い夏には近くに小川が流れていて水遊びができたし、あぜ道をたどって山の方へ行くと、
古い洞穴やトンネルが見つかったりしてよく探検して遊んだものだ。
納屋には「ぽっちゃん便所」があって、丸く穴を掘っただけのトイレは足をつっこみそうでひやひやした。
よく、飼っていたニワトリを捕まえて絞めて料理してくれたけど、「コケーコッコ!」とあわてて芝生を逃げ回るニワトリの最後は見ていられなかったな。
そんな田舎にしょっちゅう泊りに行きたがる私を叱っていた父方のじいちゃんは波平さんそっくりの明治生まれで、写真では紋付袴姿がばっちりキマッている。
隣りで羽織の着物姿で映ってるばあちゃんは、キリッとし過ぎて近寄りがたいほど。
ま、当時はピースで笑って映るなんてなかったからなぁ・・
幼少時は祖父母、叔父夫婦といとこの兄貴たち、そして我が家の3家族が広い家の表と裏に分かれて同居していた。
こちらは町なかの電車通りに面した家で、一緒に家業を営み、裏には木工場もあった。
じいちゃんはしつけも厳しかったけどよく可愛がってくれて、一緒にお風呂に入ると
普通の石鹸でなく洗濯石鹸でごしごしやられて幼な心に嫌だったのを覚えている。
固くて匂いが嫌なんだよね。
みんなのアイドルだった私は、毎日日替わりで、みんなにお風呂に入れてもらったものだ。
そのうち妹が生まれ、顔の横広い私と卵型で目鼻立ちがはっきりした小顔の妹のツーショット。
妹のアルバムには写真が少ないと思っていたら、ここに結構残っていた。
じいちゃんのひざにいつも座って、七五三で着物を着せてもらったのにすぐ脱いで、
肝心の記念撮影の時は髪飾りだけそのまま、いつもの服で他のいとこ達と映っていたり(笑)
古きよき時代。思い出いっぱいの時代。
下の妹が生まれる頃にようやくカラー写真が登場した。
田舎の縁側で、赤ん坊の妹を抱いている母と、様子を見に来た私たちの写真もある。
昭和43年にようやく郊外に家を建てて一家で独立。
今度は田舎をたたんできた母方の祖父母と一緒に暮らし始めたから、下の妹はこちらのじいちゃんに可愛がってもらうことになる。
でもまさか、その数年後に母が病気で亡くなるなんて・・
一緒に暮らした4年間は、娘として最後の親孝行だったのかもしれない。
たった一人の大きな存在が消えてしまったことで、その後の家族や周囲の人生は一変した。
その後父は今の母と再婚。祖父母は再び田舎へ帰って180度違う家族の歴史が始まった。
祖父母としばらく続いた手紙のやり取り、今でも達筆な筆跡が残っている。
それも40年も前のことなのだから、人生は長いし、実にいろんな葛藤もあったけど、
今の母のおかげでずいぶん助けてもらったし、弟も生まれて家業を引き継ぎ、父も自宅療養していられる。
よくぞ3人も娘がいるところへ来てくれたものだと感謝している。
生きている人のことを大事に思って感謝し、亡くなった人のことを忘れないのが供養だと思う。
私もいまや孫までできて、本当に人生って登場人物が入れ代わり立ち代わり続いていくものだな。
きょうは敬老の日。じーさまの所へ顔を出して、実家に電話でもしよう。
コメント
押入れの写真をなんとかしなくては(大汗)
うちも田舎のトイレはそんなでした。板張りでそれもさほど分厚くない板なので踏み抜いたらどないしょ~・・・とどきどきしながらでしたね。うちの田舎も工場をやっていてたくさんの人がいる中で遊んでいたので退屈しませんでした。その工場ももうありません。その土地も人手に渡ってしまいました。
なかなか写真の整理がつかないでいる私たちは、きっと長生きするタイプなのかもね(笑)
昔から比べたら、今の世の中はまさに21世紀! パソコンでブログ、何それ?ってね。